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2018年10月12日 (金)

あれは確か二十歳のころ

今年の3月に葉変わりで見つけた春蘭です。
棚の一番隅すみっこの鉢なので手を伸ばすのが億劫で新芽のようすを伺うのが遅くなりました。
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山では葉が暴れていたのですが素直になりました。
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山の葉はまず徒長しています。
山でそれほど葉に厚みがなくても作をして詰まる事を想像しながら探すとより楽しいです。
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特に立ち葉で、詰めたら葉脈がお尻の割れ目というか、胸の谷間のように沈みそうなものを探すようにしています。トイが深ければ尚楽しいと思います。
発見したときのようすです。
(杓子葉の矮性な…と後半のほうに夢いっぱい書いてる部分です)
http://lanhua.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-13fe.html


新芽紹介は以上です。
この先は春蘭と関係のないお話しになります。









約800を超える仲卸業者が集まった水産物部は地図でみると弧を描いて扇のような形をしていて、その扇の内側には大通路があり、築地市場の大動脈となっていた。
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フリー写真素材ぱくたそ [ photo すしぱく ]

太陽も眠る早朝、師走ともなると小車と呼ばれる手引き台車、ターレと呼ばれる電動のターレットトラックが10車線はあろうかという列になって行き交う。ときに車間は腕一本の隙間もないほどだ。闇夜から暁が市場を覗き込む頃、トタン屋根の隙間から光の柱が幾筋も大通路に降り注ぐ。真冬だろうと、そこに汗を流していない者はいない。経年劣化でスス汚れた壁、乾いた空気に舞う埃、吐く白い息が無数の光の柱を顕現させ、そのような混沌の中、私にはその景色がどんなおとぎ話よりも幻想的に映った。
「ボサッとしてんじゃねえよ!」
躊躇して立ち止まろうものなら怒号は待った無しだった。このボサッとしてナヨナヨしていて、2メートルほどある小車を引いてお使いをしているのが私だった。
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(場内にある小車のようす)

小車の背には佐長と屋号が書いてあったはずだ。佐長という字面すら今となっては記憶定かではないが、私が働かせていただいたのは河豚の仲卸業者だった。
「珍しがって指突っ込むなよ。食いちぎられるからな」
水槽の前で痛々しい古い傷痕をみせながら社長は言った。とはいえ私が魚を捌くことはまずなく、私のような落ち着きのない好奇心馬鹿がウッカリして、ウッカリする事ないように注意してくれたのだと思う。
私の役目は市場に仕入れに来たお客さんの自動車まで水産物部の店舗からひたすら小車を引いて魚を配達する事だった。小車は二輪で、チャルメラの屋台のように引く。頑丈で重たく、荷物を乗せて引くとバランスを取るのが難しい。取り扱う魚はフグだけではなく、カンパチやマグロの切り身、ウニなど様々だ。とにかくひっきりなしに配達や氷の調達がある。店と場内にいくつかある駐車場への往復で毎日足も腕もパンパンになるのであった。

時間があるときに店の方が場内を案内してくれて、築地に来たんだからとマグロのセリをみせてくれた事もあった。セリの勢いを目の当たりにし、ぬくぬくと親のスネを齧ったりしていた私は身が引き締まる思いだった。

「マイナス50℃あるからな。さっと入ってすぐ出るぞ」
防寒着を羽織り、巨大冷蔵庫では寒さか恐怖かどっちの震えかわからず震えた。

場内の取り引きは朝8時くらいには終わる。いつも片付けが終わると仕出し弁当を食べさせてくれた。しかし弁当は冷めてしまっていて、それでも有り難くいただくべきなのに甘ったれて育った私はある日、弁当を断わってしまった。
「じゃあ吉野家でいいかい?」
おかみさんはわざわざ私が断わった分の弁当代を渡してくれた。築地市場には吉野家の一号店があり、私は牛丼を食いながらなんとも言えない情けない気持ちになった。仕事も一人前に出来ないうちからワガママ言っていたのだから恥ずかしい男であった。どれだけ恥ずかしいかというと……、屋根裏の塩ビ配管を踏みつけ、店の一部を水浸しにさせてしまった事もあった。集金で間違えて各所に頭を下げた事もあった。振り返るとけっこう怒られてばかりだ。相当な役立たずだ……。それでも築地の人達ははっきり注意したり怒ってくれて、後腐れないサッパリした人ばかりだった。こんな自分でもまた使ってくれる。築地でふれた人情はその後の劇団や仕事での考え方に影響を与えたと思う。間違えがあるからと人を決め付けるよりも、出来るだけ意見を伝えて距離を縮めるほうを選ぶようになった。けれど意見を伝える事を飛び越えて相手を突き放してしまい、距離を縮めるどころか余計離れる事もあり、未だ人として成長出来ていないことに自己嫌悪を繰り返している。いずれぶつかる問題だからと予防線を張り過ぎてしまう結果だ。

狭い狭い場内にはせわしなく人が行き交い、常に喧騒に包まれている。
「ノリさん(お店の息子さん)、なんでこんなトコにあんな綺麗なひとがいるんですかい?」
「こんなトコってなんだよ」
荒地に咲く花のように若い女性がターレを乗り回していたりする。代々、家族で仲卸を営んできた人達が多いのだろうか。私が働く佐長も家族で切り盛りしていた。

場内には毒処理場なる建屋もあり、捌いて出たフグ毒はここで軽量し適切に管理される。いま思えば私自身の毒もここで処理してもらっておけば人間関係も円滑だったのではないだろうか。そんな私はフグの内臓を入れたビニール袋を係の人に軽量してもらい、書類をもらって店に戻るだけ。こういうお使いなら身体も楽なのだが、お客さんの車が立体駐車場の屋上だったりすると身体は悲鳴をあげずにはいられない。小車といえど全長2メートルほど。下り坂はさらに足への負荷が大きく、小車の重さが背中に迫ってくるのを堪えながら進む。次第に私の膝は水がたまっていった。掻き入れどきだというのにまた役立たずに戻ってしまうと焦った。その頃、世間では失業率が高いとか、仕事がみつからないというニュースがよく流れていたけれど、年の瀬、築地はとにかく人手不足だった。

正月休み前の年内最終日、自分が働く店でマグロのブロックを安く分けてもらい実家に送った。フグの仲卸店なのに。あまり覚えていないがフグの値段を怖くて聞けなかったか、店にフグが残っていなかったのだと思う。

落ち着きを取り戻した年明けの築地。私は膝にたまった水による痛みが限界になった。生まれたての子牛、もしくは子山羊……いや子馬か? どっちでもいい。 兎に角そのように足がガクガク震え、誤魔化しきれなくなった。壁や柱にしがみついて歩いた。本当に情けない。私の体力では築地ではやっていけなかったのだ。私は不本意ながら社長に退職を申し出る決心をし、最後のつもりで踏ん張り、その日の配達を終えた。
「あ、あの、おかみさん、社長」
という私より先に社長が
「ゴくんお疲れさん!助かったよ」
「え?」
「今日で契約最後ね。本当に助かりました」
と、笑顔のおかみさんからお給料袋を手渡され呆然。忙し過ぎて契約の事をすっかり忘れていたのだ(この後どう生活していくつもりだったんだ!?)。膝の限界より僅差で契約満了したのだった。

私が二十歳の頃の事である。
(最近記憶が曖昧で21歳だったかもしれないし、22歳だったかもしれない!)
当時すでに移転問題は始まっていて、確かに市場はボロボロもいいところだったが場内は完全に移転反対ムードだった。私は古き良きものを愛おしく思うのでボロボロの築地が好きだった。仕事は経験したなかで一番キツい部類だったが、集まるひとが気持ちの良い(江戸っ子で怖いけど)ひとばかりで嫌な思い出にはなっていない。それってなかなか無いことである。
佐長はこの数年後に株式会社になるとかで屋号は阿部水産に変わったと思う。そのタイミングで社長からまた働かないかとお電話をいただいたのだが、ちょうど他の活動が忙しくなりはじめたときで心苦しくお断りしてしまった。
豊洲へ行っても、お店の繁盛とお世話になったみなさんがお元気でいることを願っております。
お店、水浸しにして本当にごめんなさい。、


ご笑覧ありがとうございました。


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